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by 星野健一

幸福の科学から見た創価学会(3)二つの批判原理

 幸福の科学が、一九九四年から一年ほど展開した創価学会批判は、分量もテンションも頗る際立っている。「この世」的な見方を嫌っていたはずであるが、種々の批判書のタイトルが示唆しているように、週刊誌張りのゴシップネタや陰謀論の類いが多く、哲学者の森信成(一九一四-一九七一)が言った、一つの観念論による他の観念論の批判は唯物論の勝利になる、という警句が想起される。だがよく読んでみると、一部に観念論、宗教理論上の批判もちゃんと組み込まれていることが分かる。

まず批判が先鋭化する端緒となった大川の講演「永遠の挑戦」の一部を見てほしい。

最大にして最悪の邪教が、まだ生き残っている。それは、あなたがたがご存知の創価学会である。戦後、日本の新宗教の評判を、どれだけ落としたことか。その罪は、いわく言いがたいものがある。(略)私は許さない。その間違いを、 はっきりと指摘しておきたい。しかし、その原点は創価学会だけにあるのではない。仏陀として、かつて仏弟子が説いたことを、評価し、判定し、採点するのは、とてもつらいことではあるが、「間違いの原点は、鎌倉時代の日蓮そのものの教えと行動にある」と言わざるをえない。(『永遠の挑戦』幸福の科学出版、一九九五)。

 創価学会による、かつての強引な布教活動やいまだ続く熱心な選挙活動に対して、疑念や憤懣を懐く人が少なくないことは事実であるが、自教団が名指しで批判されたわけでもないのに、これほどの喧嘩腰になるのは些か唐突な感じがする。「仏陀」目線の発話にしても、やはり人を不思議な気持ちにさせるが、伝統による権威づけや正当化ができない場合、聖者の生まれ変わりをストレートに自称するのが有効なのかもしれない。高橋信次も釈迦、文鮮明(一九二〇-二〇一二)はイエスの生まれ変わりという設定であった。信じる人がいるのである。

 次に大川は日蓮批判の論点を二つ提示する。「一つは、「南無妙法蓮華経」の唱題を創唱したこと。そして、もう一つは、「日蓮宗以外はすべて邪教である」と言ったこと」だという。一瞥して、日蓮(一二二二-一二八二)は「日蓮宗」とは言ってないだろうとツッコミたくなる。「日蓮宗」という呼称は「キリスト教」と同様、日蓮の死後にできた言葉だ。中世末期までは「法華宗」、これに天台宗から異議が出たあとは「日蓮法華宗」と呼ばれた。現在「日蓮宗」と言ったら、狭義には身延山久遠寺を総本山とする宗教法人のことを指すとのことである(『岩波仏教辞典』、二〇〇二)。また真筆のないテキストだが、「日蓮は何の宗の元祖にもあらず」とする遺文(「妙蜜上人御消息」)もある。ちなみに「邪教」は、たしかに遺文に見られる表記だ。

 まあ、それはいいとして、唱題行にどのような問題点を見ているのだろうか。大川は、帰依すべきは釈迦の悟りの教え、すなわち中道、四諦、八正道、縁起なのだと捲したてる。これらを無視して唱題行をやるのでは駄目だと言う。唱題行とは、仏や神々の名が書きこまれたタブレット(曼荼羅の一種)に向かって「南無妙法蓮華経」という文句(一種のマントラ)を連呼することで、「仏界」にアクセスできるとする宗教的実践である、というのが、おそらく最大公約数的な理解だろう。日蓮信者の間では、「南無」は本来「ナム」と唱えるべきだ、いや「ナン」でもいいんだというトリヴィアな論争があったりする。

 私も嘗てはだいぶ熱心に唱題行を実践していたが、確かに爽快感を得られることがしばしばあった。そうした感覚を「仏界」と結びつけて認識している人もいるのだろうが、科学的な調査が進めば、おそらく大脳生理学的な説明で片がつくだろう。実際、脳科学者のジェームス・ハーツェル()や仏教研究者の松戸行雄などは、脳科学的な観点からマントラの研究を進め、一定の成果を得たとしている(松丸さとみ「サンスクリット語でマントラを暗唱すると、脳灰白質が増加することが明らかに」「ニューズウィーク日本版オフィシャルサイト」二〇一八年六月八日付け。松戸スザンネ/松戸行雄『脳波シフトで宿命転換-日蓮仏法3・1』NextPublishing Authors Press、二〇一八)。

 仏教以外の世界宗教にも、多かれ少なかれ発声を伴って神人合一を目指す神秘主義的な実践が見られるのは興味深いが、どうしても「異端的」と見なされるきらいがある。日蓮の唱題行も実在した釈迦(前四六三頃-前三八三頃)が説いた教えとは無関係であろう。日蓮信者でもある研究者の中には歴史的な釈迦と日蓮を思想面で重ね合わせようとする人もいるが、説法や茶話としてはいいとして、学問的には無意味だと思われる。一方で日蓮仏教、ひいては日本仏教は、「本当の仏教」から外れたまがいものだという厳しい主張もある。根底にあるのは、古ければ古いほど萌える、カッコイイという古代趣味で、仏教研究の前提にある語学習得の難関さが加味されて、宗教研究者の中にも、こうしたスノビッシュな位階を意識している人は少なくないと思われる。

 仏教思想にかなり精通している宮崎哲弥(一九六二-)でさえ、二世紀半ばから三世紀半ばにかけて活動した龍樹の「中論」あたりまでには関心があるが、インドから中国、そして日本へと輸入され、ズレにズレた我が国の仏教にはあまり価値を見出していないようだ。宮崎は仏教者であるが、たまに正統を自認する信者でもないのに異端性を批判する人がいて、おかしい。異端的な教団が社会倫理や法律に抵触するところを非難しようとして、途中から頭の中でこんがらがってしまうのだろうか。 仮に仏教学者らが幸福の科学を仏教の伝統の中に位置づけるとしたら、異端の極北と見なす可能性が高い。その場合、幸福の科学の創価批判というのは、異端同士の共喰い的様相を帯びてくる。しかし一応、大川は「仏教学の修正」と銘打って『幸福の科学』一九九二年三月号から一九九三年六月号で仏教思想について論じ、それらを『悟りの挑戦』の上下巻(講義篇なる解説書もあるが、教団内のみ頒布)及び『沈黙の仏陀』(幸福の科学出版)としてまとめている。中道、四諦、八正道、縁起について「現代の幸福の科学が到達した神理学的観点から」論じると言い、意気込み十分であった。特に基本教理書の『太陽の法』で「愛の発展段階説」などと言って力説していた八正道はお気に入りで、『幸福の科学』一九九四年六月号と「永遠の挑戦」と同時期の一九九五年一月号・二月号でも敷衍している。

 他の大川氏の著作と同様、全体的に平明な筆致であり、とても読みやすいのだが、様々な教説が教団内でどのように実践され、また活かされているのかが見えてこない。ただ、幸福の科学が日蓮・創価学会の思想には釈迦の教えがない、と批判し始めたとき、ウチはちゃんと説いているんだぞと、とりあえず主張できる状況であったのである。たいへん準備がよろしいようで。



2018/10/21改稿。



by dreamingmachine | 2018-07-28 06:42 | 現代宗教研究