塚田穂高「グローバル化時代の教育大学に必要な「宗教」教育とは何か」を読了

  私は創価大学という、巨大な新宗教団体が立てた大学・院に6年間通ったが、ここでは他の宗門系大学にあるような宗派教育はなかったように思う。宗教学、仏教学関連では、宮田幸一(宗教哲学)、菅野博史(中国思想史)、岩松浅夫(インド仏教・サンスクリット語)、前川健一(日本思想史)、小林正博(日本仏教)、小島信泰(日本仏教)、中野毅(宗教社会学)、粟津賢太(宗教社会学)氏らの講義を受講したが、どれも学術的なスタンスで、たとえば放送大学でそのまま流しても成り立つ内容であった。一方、他の分野の講義のなかには、日蓮の教義を喧伝せずとも、牧口・戸田・池田をめぐる物語や彼らの言説を重視するものがちらほらあった。これは特殊な教育状況なのであろうが、とくに教育学部・教職大学院が設置されている大学として見たとき、考えるべき点がありそうである。また、他の仏教系の私立にしても、規範性の高い宗学と客観的な仏教学との間に懸隔があり、僧侶の育成機関としてある種のアンチノミーを抱えているようにも見える。

 このような問題関心をいだいていた私にとり、塚田氏の論稿「グローバル化時代の教育大学に必要な「宗教」教育とは何か─ 上越教育大学における宗教文化教育と「宗教と社会」教育の実践と課題 ─」(『「人間力」を考える 上越教育大学からの提言5』所収)は、「大学における宗教教育の現状」という取り扱われることが圧倒的に少ない問題に実証的に切り込み、また塚田氏の教員としての実際の取り組みも示されていて、じつに興味深かった。以下、紙面にマークした指摘・洞察の中から3点だけ抜き書きしておく。

「教員養成系・教育大学における「宗教」教育のあり方,という問題設定が重みを持ってくる(略)その大学で「宗教」 教育を受けた学生が、卒業後に小・中・高等において今度はそれについて(も含んだ内容を)教える、あるいはそれに関わる諸問題等に対応する側にただちに立つ、という独自性も持っているからである。そこで教えられるべき内容には、どのようなちがいや工夫が必要とされるのかの検討が必要である。 」

「(上越教育大学では)上述のブリッジ科目「社会」のみが、学部1年生が全員受講するという点で重要度が高い。ただし、それも「宗教」を扱うのは全15回のうちほぼわずか1回90分のみであって、学部1年生の必修科目あるいは選択教養科目として半期15回にわたって履修し学ぶようなものではない。この90分の内容が、入学まもない学部1年生にどれだけ印象付けられるものであるかは心許ない。そうして、(その先「社会」系を専攻しない)多くの学部生は、この1回90分の「宗教」についての授業を聴いただけで、卒業し、教壇に立ち、「 宗教」に向き合わなくてはならないのかもしれないのである。それが、現状だ。 」

(いったい、母校出身の教員らは、どうしているのだろうか・・・)

「こうした授業を展開していくなかで、注意している点が3つある。1つ目は、中学校・高校内容との連続性である。 「これは高校の日本史/世界史/倫理でやりま したね」とたびたび問いかけることは、それまで履修者自らが受けてきた教育課程との連続性を意識させ、今から学ぶことがその土台を基礎としつつさらに新規のあるいは発展的な内容であることを示唆するものである。それだけに留まらず、「 これは中学校の地理/歴史/公民の教科書にも出てくるんですよ」といった問いかけも随所で行うようにしている。」

(フリーランスとはいえ私も一応教育者であるのだが、本当はこういう話もしたい。ちょっと羨ましく思った。塚田さんの講義構成はとても体系的で、ここまで練られたものは、知見が限定的な私にはとてもマネできないのだけれども)

 目次

1 問題の所在―グローバル化のなかで「宗教」教育をどうするか ―
2 宗教教育の基本枠組と「宗教文化教育」の提唱
3 上越教育大学に「宗教」を教える授業はどれだけあるか
4 教育大学で「宗教」教育の授業を実践する
 4.1 上越教育大学において「宗教」を段階的に学ぶとしたら
 4.2 宗教学概説―宗教学の基本概念・テーマによる横断的理解―
 4.3 宗教思想史研究―世界の諸宗教の概観と宗教文化教育の実践―
 4.4 宗教学文献講読―現代日本の「宗教と社会」の理解と教育―
5 小括―今後の課題―




by dreamingmachine | 2020-04-26 11:27 | 御恵贈書籍

研究者星野健一のブログ。


by 星野健一
プロフィールを見る