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by 星野健一

研究メモ-長與善郎『最澄と空海』


上記で予告したように、研究メモ(改造)を転載していきます。


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1.作品について
 長與善郎(1888ー1961)が『最澄と空海ーシナリオ風脚本ー』を発表したのは、一九五一年八月、掲載誌は『中央公論』一九五一年六月号「文藝特集」である。一九五三年三月には創文社から単行本化、さらに一九五四年の『現代日本名作選 青銅の基督・この男を見よ』に採録された(私が入手したのは、これである)。

 この巻末にある解説で福田清人は、「作者が十數年前、辻善之助博士の『人物論叢』の中の『最澄』を読み、關心を持ちだし、その後さらに同博士の研究など参考にして、題材をあたためてきた上書かれた」と述べている。今のところこの経緯の典拠は不明だが、特定宗派の関与が見えない点には着目しておきたい。また正確には、『人物論叢』にあるのは「傳敎大師と其時代」というチャプターである。その他の参考文献は定かではない。

 描かれた時代は、八〇六(大同元)年から八二二(弘仁十三)年、つまり天台宗の開宗から最澄の死没までで、比叡山、高雄山、高野山を舞台とし、泰範をめぐる最澄と空海の葛藤が中心である。この三人以外にも、最澄の弟子圓澄、光定、圓修、最澄の天台戒壇独立運動に異を唱えたが、空海とは親交のあった護命、空海の師勸操、仏教興盛に貢献した和気廣世、嵯峨天皇の下躍進した藤原冬嗣などが登場する。

 本作について福田は「最澄を純宗教家肌の人格者とし、空海を政治的手腕のすぐれた社會改良家肌の宗教家としての解釈から、あくまで宗教に生きる最澄のへりくだった気持ちを分析しつつ、一方空海も最澄のすぐれた点をみとめる度量によって、解決する。その進行シナリオ風な脚本でテンポと場面の快適な転換で、新鮮に示している。このテクニックは、よくこの重厚な作品を支えている。」と評している。ここで言う「解決」とは、両者の和解を示している(最澄は没しているわけだが)。空海は終局でこう讃える。


和上は安らかな大往生をお遂げなされたに相違ござらん。拙僧等はあれこれと俗務にまで追われ、結句とり止めもなく、奔走するのみでござるが、終始一貫一道を究められた傳教大法師の御行蹟は不朽でござる。日本仏教はおそらくこの叡山によって基礎を定められ、末廣く栄えていくこと、萬々疑ひござらん。


拙僧住居の寺でありました高雄山神護寺実は、和上の御揮毫を給はりました。


 また、空海をこのように(最澄と比較して)性格づける描写が、後続の司馬遼太郎『空海の風景』にも類似した形で見られることにも留意したい。本作における長與の関心が最澄のほうにあるのは明らかだが、戦後の作品に現れた空海描写の一つとして、その周辺情報をメモしておく。

 


2.仏教との関わり

 長與は、家庭の宗旨が曹洞宗であるものの、代表作が『青銅の基督』だからか、私の中では宗教で言えばキリスト教に関心を持っていた人というイメージが先行する。だが、その生涯を俯瞰してみると、断続的にではあるが、仏教への関心が垣間見られる。
 例えば二十歳の頃、内村鑑三の著作に親しみ、その謦咳に接するようになったが、そうした中でも当時人気だった清沢満之の本を読んでいる。また、「自分は仏教に云ふ如き前世を信じない」などと書くこともあったが、書を書く段になれば「専一に己事を究明す」(宗峰妙超)などの禅語録を好んだ。仏教に傾倒することは決してないが、文化教養としてはこれを割と積極的に摂取していく。長與のそうした姿が浮かぶ(私は好きである)。
 長與を仏教へと惹きつけた重要な契機のひとつは、学習院高等科時代(一九〇九〜一九一一年)における、鈴木大拙と西田幾多郎との出会いであろう。鈴木は英語の教員で、西田はドイツ語の教員であった。羨ましい教育環境だが、両教員とも当時は今ほどやたらありがたがられる「哲人」ではなかった。だが、長與はその一言一言に傾注したと書いている。彼らの口吻はこの当時からインテリ青年を魅了するものだったのだろうか。長與は後年、最も尊敬する三人の傑物を挙げているが、うち二人はこの鈴木と西田である(もう一人は幸田露伴)。
 やがて長與は、鈴木の影響で彼が邦訳したポール・ケラス『仏陀の福音』(一八九四年)を知り、愛読するようになる。一方で、仏教哲学的な思索のほうはあまり得意ではなかったようで、西田の著作の中で通読できたのは『善の研究』と『思索と体験』(とその続編)だけだったと告白している。ちなみに私が読んだのは『善の研究』と『哲学概論』だけである(後者は哲学の受容史をやる人でもない限り読む必要はないだろう)。
 高等科を卒業した後はしばらく仏教との接触が見えなくなるが、一九二一年に突如『地蔵の話』と『西行』(一九二六年に岩波書店から出た『菜種園』に採録)を執筆し始める。このあたりの背景はまだよくわからない。関東大震災の折には、信州にいて身は無事だったが、鎌倉の家は倒壊した(が、翌年にはまた鎌倉に居を構えた)。この頃、禅について「何となく頻りに知りたくなって」鎌倉中学の校長で報国寺の住職だった「菅原さん」なる人物に、毎週火曜日午後三時から一、二時間ほど教えてもらうようになる。禅問答については「禅特有の逆説的荒唐無稽の謎めいた話ばかり出てくるのに狐につままれたような、瞞かされたような気がした」「何のことやらいまだに解らない」と言い、頼んで教えてもらってるくせに批判的であるが、中国禅の弘忍と慧能の関係には関心を強め、それが『五祖と六祖』(『白樺叢書』三、一九四〇年所収。初出は一九二五年六月)に結実した。また、一九二九年秋頃にバセドウ病を患って病床に伏せた際には、教師をやってる知己に中里介山の『大菩薩峠』を朗読してもらい、それを楽しみにしていたという(かわいいかよ)。
 一九三三年一月からは、『ショーペンハウエルの散歩』を『重光』に連載し始める。ショーペンハウアーといえば、原始仏教からの影響が知られるが、長與はその「インド哲学系の思想に一から十まで傾倒したわけではな」いと断っている。ならば、惹かれたものは何だったのかが気になるが、まだ調べきれていない。また、退職する里見弴に代わり、明治大学文芸科の東洋思想の講座を受け持つことになったのもこの頃である。長與の『項羽と劉邦』『竹沢先生と云ふ人』の読者だった同科部長の山本有三からの依頼だった。長與は、この講座を担当するに当たって、「泥繩式」だったとはいうものの、宇井伯寿の『印度哲学史』(岩波書店、一九三二年)を読んだという。しかし、この講義内容についても不明である。
 一九三六年には東北地方を旅行した際に中尊寺を見て感銘を受け、十一月に『中尊寺を観るの記』としてまとめている(一九三九年に小山書店から出た『人生観想』に採録)。信仰はしないが、仏教美術に強く惹かれるというのは、のちに同じく中尊寺を巡礼した井上靖と共通する(井上の仏教との関わりについては、拙論「鑑真小説覚書き」に書いた)。
 一九四〇年頃、鈴木大拙の「英文の著書『東洋と禅』を西田先生が褒め、専吉(註:自伝『わが心の遍歴』中の長與の変名)が和訳したらどうか」と言ったが、「いかに尊敬する人の著作にしろ、自分で訳などをする気も暇も」なかったため、旧知の志賀直哉のところで英語の家庭教師を務めていた「西という美術批評家とかいう男」を鈴木に紹介した。長與はその西が翻訳を担うことになったというが、『東洋と禅』にしても、「西」にしても、Google検索でヒットしないではないか。となると西は、専吉と同じく変名で、美術史家の北川桃雄、『東洋と禅』は北川が邦訳した鈴木の著作『禅と日本文化』(岩波書店、一九四〇年)だろうか。
 一九四三年一月、長與は熱海の宿に泊まり、『東洋の道と美』(聖紀書房、一九四三年)の執筆に取りかかっているが、その宿の近くに岩波茂雄の別荘があり、たまたま西田夫妻がここに滞在していた。長與はこれを知ると毎日西田に会いに行き、プラトンやニーチェに関する質問をぶつけた。東洋思想についてモノを書いている只中で、西田相手に西洋哲学のことしか聞かないのは、いささか奇異である(西田の著作をあまり読んでないことがバレるのが怖かった?)
 雑駁ながら長與の生涯から仏教との接触を抽出してみたが、とくに禅との関わりが強く、天台学や密教学に関心を示した痕跡は見えない。最澄と空海への関心は、泰範らをめぐる両者の一悶着から収束、和解へと至る人間模様の描出に限られていたように思われる。



◆主要参考文献

長與善郎『現代日本名作選 青銅の基督・この男を見よ』筑摩書房、一九五四年(『最澄と空海』も採録)

同『わが心の遍歴』、筑摩書房、一九六〇

同『余の宗教への前提』、新しき村出版部、一九二四年

岩淵兵七郎『長與善郎(評伝・人と作品)』、長與善郎(評伝・人と作品)刊行委員会、一九八八年


◆気になっている未読文献

①『重光』三(二十)一九三四年に掲載された長與の随筆「釋迦とシヨーペンハウエル。その他の斷想」及び「佛敎熱の復興について」。

②『最澄と空海』の執筆前後の長與の作品『人間の教師たち』(梧桐書院、一九五一年)及び『業』(『中央公論』一九五二年十一月号)。

③創文社版『最澄と空海』。

④一九三三年の七月から十二月まで『婦人公論』に連載していた『善縁悪縁』。

⑤渡辺守順「戒壇院 長与善郎「最澄と空海」『比叡山文学散歩』、白川書院、一九六三年

長與善郎「弘法大師の人となり」『大世界』十一(九)、一九五六年

※Googleドキュメントを利用して、ほとんどスマホで入力してきたテキストですので、引用文の中の変換が難しい字については簡易なものに変えてあります。



by dreamingmachine | 2020-08-13 02:42 | 現代宗教研究