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by 星野健一

本山荻舟『日本人日蓮』

 本山荻舟『日本人日蓮』(天佑書房、1943)

 本山荻舟(1881-1958)は、大正から戦後にかけて活躍した記者、小説家です。まだ本格的な研究はあまりされてない人物だと思います。多彩な作家で、日本の食文化を探究した浩瀚な著作『飲食事典』を編んだり(2012年に平凡社から復刊されました)、歌舞伎についても少なからず書いています。そんな荻舟が宗教、仏教の中でほとんど唯一ハマったのが日蓮です。足かけ8年かけて日蓮論を綴り、『日本人日蓮』として上梓しました。石川教張先生の『文学作品に表われた日蓮聖人』(国書刊行会、1980)の荻舟の項では言及されていない作品です。本書は学者の本ではありませんから、現在の学問水準に照らして評価できる/すべき作品ではないのですが、執筆姿勢が文学者らしくて好もしく思います。荻舟は、劈頭で次のように述べています。


日蓮が日本人であることはいふまでもない。

しかも敢てかくいふのは、從來一般人の多くが、日蓮を一個の日本人としてよりも、專ら一宗の祖師として尊崇し、若しくは評價し、現になほその域を超えるものが尠いかに見えるからである。

門末の檀信徒がさう信じて、ひたぶるに讃仰することを、必ずしも間違ひだとはいはぬけれど、わが佛有難しの祖師といふことに局限されると、有難しと思はない一般人、乃至他宗の檀信徒等には、路傍人であり、他人であり、或ひは敵でさへあるやうに扱はれる。[1頁]


日蓮傳の世に出たものは、 いはゆる汗牛充棟も啻ならぬが、多くはまた一宗の祖師として、檻の中の日蓮を描いたに過ぎず、現にかくいふ筆者の如きも、大正十年に發表した最初の日蓮傳は、恥かしながらこの亞流であッた。しかも日蓮自身としては、未だ嘗て一宗の開祖だなどとは、筆にも口にもしたことがなく、或ひは日蓮宗といひ、或いは法華宗といふも、皆後人のさかしらで、日蓮の本意でないことは勿論、いはゞ贔屓の引倒しなのである。[3頁]


 痛快です。一方で、自省的でもあります。

 荻舟は大正10年(1921)に『報知新聞』で日蓮伝を執筆し、翌年にその連載を『日蓮』(光華堂出版)として出版しています(大正14年に報知新聞社から再刊。石川著ではこの版のみに言及)。これはNDLデジタルコレクションで読めます。

 また、『日蓮主義』という雑誌の昭和3年(1928)の11月号に16名の書き手による合作「日蓮聖人御傳」が掲載されているのですが、荻舟はクライマックスである「龍口法難」の場面を任されています。

 ですが、こうした仕事は、日蓮に関する独自の考察や感興を示したものではありません。まさに「檻の中の日蓮」を描写しただけに見えます。

 しかし『日本人日蓮』では、そうした執筆姿勢を覆し、山川智応や中川日史(顕本法華宗)の研究を参照しつつ、日本社会に向けて独自の(非信仰的な)日蓮観を開陳しています。当時の学術研究のアウトリーチ的な役割を果たしているような印象を受けます。晩年に発表したコラム「日蓮上人・法難の実説ー龍の口の法難法華経の妖術予言のからくりを詳述す」(『特集人物往来』1(3))も、同様の筆致です。

 文学者の語る祖師像ないし仏教観は、必ずしも信仰の立場から発信されたものではないという点でとても面白いと思います。一宗の流布に一役買いつつも、それには回収されえない社会的意義や作品上の特色をもちうる。もちろん、あくまで一つの傾向としてではありますが。

 ちなみに荻舟は『日本人日蓮』と同年に『史談巷談』という作品集を出していて、その「居庸關故事」では海外布教伝説で有名な日持を取り上げています。シブい。

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by dreamingmachine | 2021-07-25 20:01 | 近代仏教研究