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書評『宗教と政治の転轍点 保守合同と政教一致の宗教社会学』

 以下は3年ほど前、『法華仏教研究』第21号(2015年10月発行)の「本の紹介」に掲載された拙書評を転載したものです。ブログ用に多少表記等を変更してあります。

塚田穂高著『宗教と政治の転轍点 保守合同と政教一致の宗教社会学』(花伝社)

 戦後の新宗教の実証的な社会学的研究を牽引する著者による稀有の労作である。これまで創価学会の政治運動ばかりが注目されてきたが、そしてこれは、国立戒壇論だとか言論妨害事件だとか法的・社会的規範に挑戦する側面があったことや、国政に自前の政党を通じて関わっていること――塚田はこれを「政治進出」と言い、候補者や政党を組織的に支援するだけの「政治関与」と区別しているので注意されたい――を考えれば当然だと私は思うのだが、そろそろ生長の家とか日本会議とか解脱会とか真光とかオウムとか幸福の科学等々の政治運動もしっかり把握して我が国の政教関係の総体的実態像に迫りましょう(またそうやって創価学会を相対化してこそ、その政治運動の特殊性も鮮明になるでしょう)というのが塚田の着眼点である。

 本書の中核的な参照軸はナショナリズムという、人口に膾炙され過ぎて私としては食傷気味の概念であるが、新宗教におけるそれとなると網羅的な資料収集に裏付けられた着実な研究は少ない。本書は新宗教におけるナショナリズムを先行研究に接続させた七つの分析指標に基づいて手際よくかつ慎重に論じており、よくある、憶測を並べただけの胡乱な宗教評論や粗忽で概括的な宗教解釈とは一線を画している。しかし資料調査に熱心だからと言ってブッキシュであるわけではない。あとがきに書いてある、単独で各教団に肉薄していき、教団の広報局員から問い詰められたこともあるという塚田の体験がそれを象徴している。

 ただ慎重過ぎに見えるところもあって、幸福の科学のナショナリズムの先鋭化が見られるとされる霊言集の文言を引用した上で「これを大川や教団の運動方針や政治的志向とそのまま同一視するのは、留保が必要と思われる。大川自身が同書を「異色のもの」としており、こうした終末的状況を回避するように運動を展開したと教団は主張する。またこれらは、あくまでノストラダムス霊や高橋信次霊の発言だというのが教団側の言い分であろう」(三一〇頁)と述べるのだが、ここはかつて大川自身が霊人の言葉の中で納得できたことしか霊言集にしないから霊言は全て自分の思想・考えだと公言していたことなど(「霊言は総裁の思想です(本人談)」)を指摘して、後出しの説明は不要と言ってもよかった気がする。

 ともあれ、塚田の議論は堅実に展開していくので、社会学音痴の(理論的な話に懐疑的な)私にさえ説得的である。

 次に、目次の第Ⅱ部の各章のタイトルに目を通していただきたい。ここでは創価学会をはじめとする独自に「政治進出」した五つの教団の個別研究がずらりと並ぶのだが、浄霊医術普及会やアイスタ―とった教団の存在自体、私は本書で初めて知った。これらについてはほとんど研究蓄積がないのではないか。このあたりの新知見も看過できない。

はじめにー問題の所在ー
第1章 宗教と政治をめぐる研究史
第Ⅰ部 保守合同ー宗教団体の政治関与と「正統」的宗教ナショナリズムの求心性ー
第2章 戦後日本の保守合同運動
第3章 保守合同運動と新宗教運動
第II部 政教一致―宗教団体の政治進出と独自のユートピアの希求―
第4章 創価学会=公明党―基点としての王仏冥合・国立戒壇建立―
第5章 浄霊医術普及会=世界浄霊会―浄霊普及、神意としての選挙戦―
第6章 オウム真理教=真理党―シャンバラ化の夢想、ハルマゲドンの回避―
第7章 アイスター=和豊帯の会=女性党―「新しい女性の時代」のために―
第8章 幸福の科学=幸福実現党―選ばれた日本、ユートピア建設の理想と現実―
結章 宗教と政治と「私たち」の課題

 またこの五つの教団についての要言は腑に落ちるもので、続く創価学会=公明党の挙動に対する疑念を引照すると、示唆的でさえある。

重要なのは、こうした独自のユートピア観ないし政教一致観は、自運動の信奉者以外にはほとんど共感を得られ(きてい)ないだろうという点である。これらは、自運動の教えの正統性、真理の独自性に関わる側面であるため、安易に妥協を許すものではない。前述の日本の伝統性や天皇・皇室崇拝重視姿勢が稀薄であることと相まって、他宗教・運動との協同、ならびに既成政党・政治家との連携という「政治関与」の芽は、あらかじめほとんど摘み取られている。よって、その実現のためには、独自の「政治進出」の道が決然と選ばれることになるのではないか。(三七九頁)

現在の安倍政権の目指すところと、創価学会=公明党の本来、あるいは指導者の目指すところははたして相容れるものなのだろうか。(三八三頁)

 はたして、宗教(創価学会)が元来揚言してきた「ユートピア観」(「政教一致観」「世界像」「理念」)といったものと、それを実現させる手段としての他の政治的組織(自民党)
との「連携」、そしてそれに伴う「利害状況」は、どのように連関しているのだろうか。昨今、創価学会=公明党は「宗教集団の集団エゴ的な利益に公共善に関わる理念が従属しているのではないか」などと疑問を呈されている(島薗進「創価学会と公明党の「宗教と公共空間」」『UP』二〇一四年九月号)が、確かに私にも「利害状況」が「ユートピア観」を解体しているように見える。

 塚田は、「宗教と政治の転轍点」、すなわち戦後の多様な政教関係を分析した先に見えるその決定的な分岐要因とは何かという問いについて、そこに「教勢の規模、財政状況、政治的関心、会員紐帯の引き締め、運動のPR、社会性の誇示」などの様々な「利害状況」が関与していることを認めつつも、運動の「理念」とその「理念」が描く「世界像」であるという答えを与えている(三七九~三八〇頁)。

 この回答をもって上の懸案にどう対処したらよいのか、正直私は未だ整理できていないのだが、ともあれこうした政教観は、本書の劈頭で引用されている宗教社会学者の泰斗マックス・ヴェーバーの文言と二重写しになるもので、本書のいわばライトモチーフでもあるのだろう。そうした政教観に立つ本書が、今後我が国における実証的な宗教社会学の「転轍点」となっていくのかどうか、熟視していきたい。(了)

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by dreamingmachine | 2018-10-23 23:02 | Trackback

須田晴夫「宮田論文への疑問」についての感想

 拙ブログのキーワード検索履歴を見たら「須田晴夫」が何件もありました。私が学部・院で宮田幸一先生に師事したからでしょうか。
 
 宮田氏の議論に対する須田氏の所感とされる表題のエッセイ(今ではYouTubeにも上がっていますが)については、私は割と早い段階でざっと読みましたし、10日くらい前に自宅に友人を招いて開いた飲み会でも少し話題にしました。

 しかし私は、会内の極々一部で話題になっているらしい教義変更をめぐる問題は「人文社会」にまつわる知の大海のなかでは極めて周縁的な問題だと認識しており、これに大きな関心はありません。ただ、検索履歴が少々あったので、くだんのエッセイに対して申し訳程度ですが感想を述べておきたいと思います。

(1)
 宮田氏が遺文の真偽問題ないし学術性を顧慮するのは、教団外の日蓮研究者に説得力のある教義解釈を提示し、彼らと可能な限り合意形成を得るため(文献に限定して思想を把捉しようとする姿勢もそのため)だと推測します。

 ですから、真筆や古写本に価値を置く宮田氏の姿勢を批判するなら、そうしなくても教団外の日蓮研究者の多くに説得力のある教義解釈を提示できる具体的な方途について論じるのが適切かと思います。
 
 また、宮田氏は「ジャクリーン・ストーン『Original Enlightenment and the Transformation of Medieval Japanese Buddhism (本覚と中世日本仏教の変容)』について」の(注2)において、「私は偽書とされる文献について、日蓮個人の思想ではないが、日蓮の思想のある面を展開した文献として、日蓮仏法に含めることは十分に意味のあることだと考えている。それは大乗仏典が釈尊個人の思想を記述したものとは認められないが、釈尊の救済思想を展開した文献として重要なものであり、仏教の思想的遺産として十分に役立っているということと重なる。宗教を創唱者個人の思想に限定するのは歴史学的には意味のあることかもしれないが、宗教が社会、文化に果たす役割を考えれば、後世の解釈、付加部分も重要な宗教の要素なのである。」と書いており、文献学を偏重しているわけではないと思われます。

(2)
 功徳体験のような宗教的事象・解釈について、宗教社会学的に考察するという宮田氏のスタンスは、牧口常三郎の衣鉢を継ぐものに見えますが、別段非常識ではないと思います。
 
 例えば、どこかのオカルト教団が自前の政党を作り、国政選挙に候補者を何人か立てて「今回、我々は根源的な神の意志に従って政治進出したから必ず全員当選する」などと発言した場合に、その教団の構成員数等の調査に基づいて、その可能性を極めて低く見積もったりすることは(神の存在や意志、その力の否定になりえますが)至極常識的な判断だと思います。

 あるいは、その候補者が落選したとしても、恐らく彼らはそこに更なる宗教的な意味を見いだすと予測されます。しかし、宗教社会学上の重要な古典の1つである L. フェスティンガーらの『予言がはずれるとき』に依れば、それは認知的不協和だということになり、この理論は彼らが見いだした宗教的な意味とは事実上バッティングすると思います(理論の妥当性は別にして)。

 宗教社会学は、宗教上の信念に抵触する営みを含む学問だと私は理解しています。

(3)
 須田氏は、日蓮自身に自分を本仏と見なす考えがあったと書いていますが、門外漢にはかなり推測的な見立てに思えました。南無日蓮聖人がアリなら謙遜もくそもないので「私こそが久遠の本仏なり」と直截に述べている遺文があってもいい気がします。

(4)
 瑣末なことですが、「超越論的相互主観性理論の可能性 ヘルトによるフッサール再解釈の試み」(『哲学雑誌』94(766)有斐閣)や「フッサールの固有名の意味について」(『哲学』33、日本哲学会)といった宮田氏の論文は、査読論文かなと思っていましたが、いかがなのでしょうか。

 あと、『東洋哲学研究所紀要』には査読がないのでしょうか。これは初耳でした。まあ、牧口常三郎の思想的な研究や日興門流の研究は査読者探しが大変そうだなと思います。

(5)
 教義というものは、多くの人々が人生を賭して関与してきたものですから、それをラディカルに変更する提案を出すと、傷つくメンバーが少なくないと思われます。須田氏は、そういう人達に対する思い遣りが強いのかな、というふうにも読めました。


 とりあえず、以上になります。


by dreamingmachine | 2016-09-29 02:45 | Trackback(12)

『鳳雛』

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TwitterでSGの割と入手しにくい資料を複数集めた人の画像が回ってきて、よく集めたなあと感心したのだが、中にあった1966年刊の『鳳雛』には緑の巻がある。なんと、その表紙には「星野」が映っておりますです。えへへ。いや勿論私ではなくて、若かりし頃の父である。中央大付属の1年だったと思うが、病気で小学校浪人?しているから歳は周りより1つ上だろう(物故者のため本人に確認できない)。役職は「分隊長」と言っていた記憶がある。既に酒と文学(日本)に溺れていたはずだが、あはは、爽やかな笑顔。


さてSG研究だが、いま宗教社会学にはちゃんとした研究方法をとる物凄く優秀な若手の人達がいるから、純・学問としてのそれはそちらにお任せすればいいと個人的には思っている。


だが、社会的影響力の大きさを考えると、これまでの自教団の教えや運動について、どう理解し評価するのか、後世にがっちり残る形で社会に発信すること(SGによるSG研究)も重要だと思う。5年、10年のうちはまず無理だろうが、どこかで、実存性を帯びながらも寒気がするほど客観的なスタンスで、共同的な作業に取り組めるチャンスがやってくるはず…いやそうなるといいなと思う。種々のくっだらない党派性(苦笑)がない若い世代がやるしかないだろう。皆様今から勉学とか「友達」(横の繋がり)作りとか頑張っておいてください(私はやらないけど)。


※特に教学要員が不足すると予測されます。汗
by dreamingmachine | 2016-07-13 00:25 | Trackback

とある宗教研究者のブログ。メッセージはツイッターから。


by 星野健一